絵を買った

September 10, 2013

渋谷の公演通りで絵を買わされそうになった経験は田舎者の諸君なら誰もが経験しているはずである。ご多分に漏れず私も呼び込みのお姉さんに捕まってしまい店内に連れ込まれそうになったが元来の危機察知能力のおかげで何とか連れ込まれずに済んだ。後からそこが恐ろしい場所だと聞いてホッと胸を撫で下ろしたものだ。そんな経験があってかどうかは知らないが、絵を購入する、という行為に対してかなりの抵抗があることは否めない。その考えを変えてくれたのがこの映画、“ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人” だ。この映画を観て以来、良いものを良いと評価して、手元に置いて楽しむことの素晴らしさを知り、そしてそれを実感したいと思っていた。しかし、何が良くて何を手元に置いておきたいか。自分の中では一向に確信が持てずにいた。ここ数年。

話は変わって数年前。友人の弟を紹介された。日本画家だという。そう聞かされてもあまり実感が湧かなかったため「へぇ〜」という程度で話は終わっていた。しかしちょうど昨年、青山でグループ展を開催するということでご招待をいただいた。そのご招待の際にどこかで目にした作品は、何故だかちょっと気になる感じだった。なんか良さそう…。

実際に絵を観に行ってみると、なかなか良い感じ。期待通り。でも個人的にはまだちょっと手元に置いておきたいと言うほどではない。でも、でも。その絵の奥に、奥というか、4次元的な意味での奥に、もっと良さそうなものがあると感じだ。そのときの率直な感想としては「これは多分いまじゃないな、次の作品に期待」というのが正直なところだ。そして先日。

生まれて初めて絵を買った。今日は生まれて初めて絵を買った話をしてみようと思います。もうだいぶしていますが…。

画廊で自分が観てピンと来た絵を見つめていたら作家本人が説明してくれた。絵の中に込めた思いについて。絵の中で生と死を表現したい、と。それ自体は特に真新しいテーマでもなく普遍的なものだ。しかしなんだかしっくり来た。その説明と、その絵とを見比べて、作家の表現したい事がしっかりと作品に現れている感じがした。少し話しは変わるが彫刻家の保井智貴氏の作品を観たときに感じた感覚と近いような気がする。そのときは、作品から感じるオーラと、作家から感じるオーラとが全く同じだと感じた。作品は作家を映し出す鏡なのだ。それがストレートに表現されていることは、自分が良いと感じる要素のひとつのようだ。美術館などに行っていろんな作品を観ても、自分は何が良いかは表現できないし、表現する言葉を持ち合わせてもいない。だから自分の基準としては、表現者の表現物が表現者そのものを表していることを、美しいと思う。恐らくそれは「そうあって欲しい」という自分の思いなのかもしれないが。

自分の中の一番古い記憶は幼稚園のころのこと。「人間は死んだらどうなるの?」と両親を問い詰めた記憶。両親はいろいろ困っただろうが何とか答えてくれたようで、でもしかし誰も本当の答えを知らないので仕方がないのだけれども、その答えに不安で「死にたくない」と泣きわめいた。そんなことがあってかどうかは知らないが、やはり今でも時々死を意識する。悪いことではない。どちらかと言えば、死を意識しないことの方が悪いことのような気もする。死生観、メメント・モリ。

数年前に入院をして手術をしたこと自体はあまり関係はないと思っているのだが、全く関係がないと言えば嘘になるとは思う。何故かここ数年は、本当に時間が足りないと焦っているような気もする。生きている間に、より多くの場所に行き、多くの経験をし、多くの人に会いたいと思う。生来の貧乏性なので、そうしなければもったいないと思ってしまうのかもしれない。だから毎日予定を詰め込む。1泊2日でも、何なら日帰りでも行けるところには行くようにしている。それが本当の意味で何のためになるのかはわからないが、いま自分の欲求がそこに向かっているのは確かである。

あ、絵の話を続けます。

絵の購入を決めたあと、作家本人に以上のような話をした。そして「いまの自分にとってそれを忘れないために君の絵が必要だと思った」と伝えた。もちろん喜んでくれた。お礼のお手紙もいただいた。絵は上手いのに何故か拙い文字で、しかしとても心のこもった、そして信念を感じるお手紙だった。このお手紙も含めて、いい買い物をしたと思う。ありがとう、加藤丈博君。この絵とともに、40代も新しいことにチャレンジして邁進して行きたいと思います。

以上、初めて絵を買った話でした。

Author: Shin Takeda
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