嘘について語るときに僕の語ること

June 28, 2010

“嘘” という言葉には様々なベクトルがあると思う。俗に言う “良い嘘” “悪い嘘” みたいなこともそうだろう。だから “嘘” について語る前に “どんな嘘について語るのか?” というところをハッキリさせておく必要がある。

いつ頃からかは忘れてしまったが、私は “他人が私に対してつく嘘” に関しては基本的に受け入れるようにしている。このことについて、少しだけ書かせてもらおうと思う。

“なぜ私に対して嘘をつくのか?” と考えたとき、“嘘をついて自分が得をしたいから” とか、“何かを隠そうとしているから” という理由が思い当たる。

もし仮に私が、“嘘をついて自分が得をしたい” と思っている人に騙されるようであれば、それは騙される自分が悪いのだ。「そんなこと止めてください」と言ったところで止めてくれるわけは無い。人を信じないことと、人の話を鵜呑みにしないことは、同じ様で天と地ほどの開きがある。人を信じることによって “考える” ということを放棄して良いわけはない。全ては自己責任なのだ。

“何かを隠そうとしているから” という理由に関してはどうだろう?当たり前だが、隠そうとしているということは、私に “知られたくない” と思っているということだ。それを私が知ったところでどうなるだろう?私が得をするとしても、相手が敢えて隠そうとしていることを知って得をしても良い気持ちはしない。もし仮に私と私以外の大多数の人が得をするとしても、嘘をついた人は得をしないし損をするかもしれない、もしかしたら傷つくかもしれない。それが、その人から聞き出した情報ではなく、自分の考察から生まれた結論であれば、ただ単に “自分の想像” ということになるので誰にも文句は言われないと思うが、隠そうとしている人から無理矢理に聞いたり、怪しいと思って必要以上に探った結果であれば、誰も幸せにはならないのではないだろうか?

それと同じような話として “猫をかぶる” という言葉がある。それに対して私は肯定的だ。別に良いではないか。猫をかぶるということはその人が “そう見られたい” と思っていることの意思表示なのである。尊重すべきではないだろうか?本来そうでないその人が、そう見られたいと思って一生懸命に努力している証なのだ。その “かぶった猫” を見て、どう接するのか?どう判断するのか?は対峙した自分が考えることでこれもまた自己責任である。だからそれを否定する必要はないのである。

そんな “嘘” について語った私だが、その嘘を知ってしまったときはどうするのか?もちろん内緒にしておくことにしている。よく、知ってしまったことを「言いたくて仕方がない」という人がいるが、言わない方がみんな幸せなのだ。何よりも、言わないことで “口が堅い人” という評価を得ることができる。「知ってたのになんで教えてくれなかったの?」などと言われて一瞬非難されることがあっても、それは同時に「この人にだったら秘密の話をしても黙っていてくれる」と信用してもらえることに繋がるのだ。

そんなこと考えている私が、かなり暗い性格だということはもうおわかりだろう。人前で明るく振る舞っているのは嘘をついているということなのかもしれない。

Author: Shin Takeda
info@modernica73.com
 

Powered by Google

©modernica73